INICIAR SESIÓN寝室を一緒に使おうがどうだろうが、この部屋にいるとまた何かを言われそうだと思った私は、家を出て行くことも考え、荷物をスーツケースに詰めていく。
特に大した荷物もないし、とりあえず出て行ったとしても、母のお金を使わなくても働いていた頃の貯金もある。
今まで盲目的に父の言うことは絶対で、そうしなければ継母にも怒られる――それがトラウマになっていたのかもしれない。普通に考えれば、こんな私にメリットのない結婚をする理由などないのだ。 それ以外にも、この結婚をした理由はあるのだが……。しかし、離婚しようと私が言い出したところで、あの人たちが了承するとは思えない。
私はそこで一息つくと、荷物を持って一階のゲストルームへと向かった。十畳ほどだが、トイレもシャワーも備え付けてある部屋だ。
ここで十分だし、二階より一階の方が何かと都合がいい気がする。そう思いながら、私はベッドへと腰かけた。
このまま美咲がこの家にいるなら、また何かをしてくるかもしれない。そして恒一さんは、それを盲目的に信じる。 その前に、自分でできることを始めなければ。そう思うと、私はPCの電源を入れた。とりあえず、榊原の顧問弁護士に――いや、それはまずい。父の息がかかっていないとは言い切れない。
もちろん、一人だけこの件を相談できる相手はいる。いや、正確には“いた”というべきかもしれない。今も協力してくれるとは限らない。
小松碧唯。
私が働いていたKMコーポレーションの上司であり、そして――私がこの結婚を決めるきっかけになった人だ。世間体もあったため、大学は好きに行かせてもらえたが、父のもとで働くことは許されなかった。
しかし、大学時代の論文が目に留まり、国内最大手のセキュリティ企業であり国家案件まで扱うKMコーポレーションに、運よく入社することができた。結婚しろと言われるまで、私はそこで働いていた。その時の上司が、小松碧唯だった。
冷静沈着で、感情を表に出すことはあまりない人だったが、残業で疲れている部下や仕事に行き詰まった者をきちんと見て、さりげなくフォローしてくれる人だった。
ひそかに、私が憧れていた人。
高い身長に整った容姿、芸能人と言われても遜色のない外見に加え、KMという大企業の若き部長。憧れたり、本気で想いを寄せたりする女性社員は後を絶たなかった。それでも、小松部長がその誘いに応じるところは一度も見たことがない。
その事実に、心のどこかで安堵していたことも――きっと彼は知る由もない。ただ、私にとっては、部長は仕事のパートナーだった。
お互いの作るシステムは、真逆と言っていいほど考え方が違う。だが二人が組めば、最強のものができる――そう思っていた。彼の書くコードは美しく、完璧で、どれほど勉強になったかわからない。
だからこそ恋心は封印し、その隣にいられればそれでいい――そう思っていた。けれど、部長には婚約者がいると知った。
そのすぐ後に、この結婚の話が持ち上がった。
そう――失恋から逃げるように、私はこの結婚を受け入れたのだ。
告白すらせず、ただ逃げただけの自分。そんな後ろめたさから、毎日“いい妻”を演じていたのかもしれない。
身体の関係を求められないことに、どこか安堵していた自分がいたことも、理解していた。「こんなんじゃ、私も最低じゃない」
自嘲気味な笑みがこぼれる。
だからといって、愛人を同じ家に住まわせ、寝室まで共にするなど――私を侮辱するにもほどがある。
スマホを取り出し、久しぶりに部長の電話番号を表示する。
けれど、最後に交わした言葉が頭をよぎる。
「結婚するので、退社させてください」
そう言って退職届を差し出したときだった。
冷静沈着で、声を荒げたことのなかった部長が、「ふざけるな!!」と怒鳴った。その表情は初めて見る、怒りをたたえたものだった。
「引き継ぎはきちんとします」
それだけを振り絞るように言うと、部長は「わかった」と、それだけを口にした。
頼めない――。
冷静に考えれば、あれほど信頼し合って仕事をしてきた上司に対して、退職届一枚で関係を断ったのだ。
私のことなど、助ける理由はない。自業自得だ。そう言われても、何も言い返せない。
私はその画面を閉じると、窓の外へと視線を向けた。
そのあと、何を話したのかよく覚えていなかった。どうして部長はこんなことに協力してくれるのか、どうして再会してしまったのか。そんなことを考えればきりがないが、私にとっては奇跡のようなことだ。無理やり結婚をさせられ、夫は義妹と愛人関係にあり、それをあっせんする父。もしかしたら、命すら狙われる可能性もある。そこまで腐っていないと思いたいが……。「どうした? やっぱりやめるか?」その問いに、私はハッとして顔を上げた。部長はただ私に視線を向けているだけで、何を考えているのかは読めない。「いえ、お願いします」そう答えると、部長は小さく頷いた。これから不倫をしようとしている男女とは思えないほど張り詰めた空気に、どこか現実味がない気がしていた、そのときだった。不意に、目の前から「それにしても……」と声が落ちる。それにしても、何だろう――そう思いながら、私はゆっくりと顔を上げた。「仕事のとき、よく身分を隠して普通に働いていたな」それは、家の仕事をするなり、働かなくてもよかったのではないか――そんな意味合いだろう。「そんな、いいものではないんですよ。お金があったって」自虐的な言葉がこぼれてしまい、私はハッとする。「すみません。こんな話……」慌てて謝罪すると、部長は初めてわずかに表情を歪めて、「悪い」と小さく呟いた。「あの時……俺に相談しなかったのは……」それは、結婚するのに想いを伝えるのは不誠実だから、迷惑だから――そんな言い訳はいくらでもある。けれど本当は、気持ちが伝わってしまって、冷たく拒否されるのが怖かった。そう、ただ怖かったのだ。これから起こる現実も、部長のそばにいられなくなることも。でも、そんなことを言っても今さらだ。「離婚……ができたら、きちんとお礼をして、目の前から消えますね。部長は、私が既婚者だって知らなかったことにしてくれればいいので」不倫をすれば、部長にも迷惑がかかる。だから、私が離婚のために騙した――そういう形にするのが、彼にとっては一番いいはずだ。私は自由さえ手に入ればいい。海外にでも行けばいい。それくらいのお金は残るだろうし、仕事だってできる。そう考えながら、私は彼に笑って見せた。不倫をするのなら、このまま部屋に来るのだろうか――そんなことを考えていたが、食事を終えたあと、部長は何も言わずに席を立
さっきは離婚ができない理由までは話していなかった。嫌なら離婚すればいい、そう思うのは当然だ。「夫、そして私の父も承知しないでしょうね。どんなことがあっても」「それはどうして?」ごもっともな言い分に、私は苦笑しつつ口を開く。「私のお金が目当てだから。離婚をしたら手に入らないでしょう?」アルコールのせいもあるのか、自嘲気味な言葉を発してしまったが、少しふわふわとした気分になってくる。「私はお金なんていらないから、とりあえず離婚したいんです」最後は本音が零れ落ちて、我に返る。「そんなことがあって、家を出てこのホテルに」最後は彼の問いの答えになっただろう。このホテルに来た理由は単純に家出だ。しばらく、沈黙が続く。「これからどうするつもりだ?」メインが運ばれてきたころ、そう尋ねられ私は「そうですね……」とつぶやいた。「家にバレないように弁護士の先生を雇って、家を借りて……でも、足がつくから、誰か男の人でも見つける? 私が浮気をしたら、不貞で離婚できますかね?」お酒の勢いというものは怖い。いつもなら絶対に考えないことが口をついた。でも、不倫相手を見つけて、自分の不貞でもなんでも、慰謝料を払ってでも離婚できればそれでいい気がしてきた。「そうすれば、住む場所も見つかるし一石二鳥ですかね? なんて……冗談……」少しおどけて言って見せた私だったが、まっすぐな部長の視線に笑顔をひっこめる。「じゃあ、俺と不倫すればいい」一瞬、意味が理解できなかった。「……え?」思わず間の抜けた声が出たが、部長は表情を変えないまま続ける。「証拠を作る。言い逃れできない形で。弁護士も俺が用意しよう」その言い方は、まるで仕事の提案のように冷静だった。「慰謝料は払うつもりはあるんだろ?」「それはもちろんそうですが……」慰謝料でもなんでも払ってでも離婚して、復讐をしたい。それはそうだが、部長を巻き込んでいいのだろうか。「……本気で言ってるんですか」問いかける声が、わずかに震えた。部長は迷わず頷く。「本気だ」短い一言。自分から提案したことだが、逃げ道がなくなる気がした。「嫌ならやめろ」淡々と続けられ、私はごくりと唾を飲み込んだ。ずっと憧れていて、好きだった人。その人と不倫――。相手としてはこれ以上ない人だ。でも、あの両親、夫と部長を関わらせれば、迷
「……飲めるか?」会社にいた時、飲み会の席はもちろんあったが、家のこともありあまり出席をしていなかった。部長が私がアルコールを飲むか飲まないかは知らないだろう。私自身、それほど得意ではなく、ほとんど口にしないが、今日はなんとなくいろいろなことがあり気持ちも高ぶっていて、飲みたい気分だった。「少しだけなら」そう答えて、口をつける。渋みと香りがゆっくりと広がっていくのに、心だけが落ち着かない。向かいに座る部長は、相変わらず無駄のない所作でグラスを持ち上げていた。何も聞かないのは怒っているからだろうか……。沈黙が落ちる。それに耐えきれなくなったのは、私のほうだった。「本当にご迷惑をおかけしました。あの時は」あの日の部長の表情は今でもはっきりと思い出せる。怒り、失望、そんなところだろうか。「食べたいものは?」その時、個室の扉がノックされたのが分かり、部長の返事はなく、質問に変わる。「お任せしてもいいですか?」到底魚だの肉だの言えるわけもなく、私はそう答えた。またもや沈黙になってしまい、私は泣きたくなってきてしまう。助けてもらいたい、そう思っていた人だが、目の前にいざいるとなると、彼に何をしてもらおうというのだ。「あの、やっぱり私……」料理も頼んでしまった上に、このまま帰るなんて本来許されるわけはないのに、そう口にしていた。「どうしてこのホテルにいたか聞いてもいいのか?」今まではワイングラスに視線を落としていた部長の瞳が、まっすぐに私とぶつかり、ごくりと唾を飲み込む。「私、結婚したんです」この言葉から言う必要は全くなかったが、動揺していた私はそう口にしていた。「結婚して夫となった男と泊まりにきた……そんな雰囲気はないな」その言葉から、部長の感情は読み取れず、私はまだ考えがまとまらないまま、契約結婚だったこと、義妹が現れたこと、だから、仕事もできなくなったことをとりとめなく話してしまった。過去の部下のこんな不幸な話を聞くなど、まったく面白くもないだろうし、言われたところでどうにもできないはずだ。「こんな話……ごめんなさい」最後に申し訳なさからそう謝罪すると、目の前のワインを一気に飲み干した。まだ食事もしていないところに、多くのワインが入り、胃がカッと熱くなるのが分かった。そこへ美しい前菜が運ばれてきた。「食べよう」ただ
時間だ。そう思い、私はゆっくりと立ち上がった。袋から取り出したネイビーのドレスに袖を通し、簡単に髪を整える。鏡に映る自分は、ほんの少しだけ背筋が伸びて見えた。深呼吸をひとつして、私は部屋を出た。エレベーターに乗り込み、静かに上昇していく中で、無意識に背筋が伸びる。やがて最上階に到着し、扉が音もなく開いた。一歩外へ出ると、そこは先ほどのフロアとはまるで別世界のような静けさに包まれていた。柔らかな照明に照らされた通路の先にはレストランの入口が見え、その手前には数人の男性たちが集まり、低い声で何かを話している。いかにも仕事のできる男たち――そんな言葉が自然と浮かぶ。無駄のないスーツの着こなし。わずかな仕草にも隙がなく、その場の空気だけが少し張り詰めているように感じられた。私はその集団に視線を向けないようにしながら、横を通り過ぎる。やはり一人でレストランに入るのは気後れしてしまう。そう思った、そのときだった。「――久しぶりだな」背中に落ちた低い声に、心臓が一瞬だけ跳ねた。振り向かなくてもわかる――そう思った自分に、なぜか落胆にも似た感情が広がる。それでも、ゆっくりと顔を上げる。視線の先、集団の中から一人、こちらへと歩み出るのが見えた。――小松部長。電話をかけようとして、結局できなかった相手が、今、目の前にいる。現実なのかどうか、うまく理解が追いつかない。それでも、目の前の彼はあの頃と何も変わらない、無駄のない立ち姿でそこにいた。いや、むしろ以前よりもいっそう洗練され、静かな迫力すらまとっているように見える。「……部長」名前を呼ぶだけで、喉がわずかに乾いた。彼は軽く頷くと、周囲の男たちへ短く視線を送り、何事かを一言二言交わす。すると、その場の空気が自然にほどけ、彼らは一歩引くように距離を取った。このまま「では」と言ってレストランに入ってしまってもいいのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。だが、その前に彼がこちらへ歩み寄ってきた。「……こんな場所で会うとは思わなかったな」淡々とした声。責めるでもなく、詮索するでもない。それがかえって、申し訳なさを呼び起こす。「……私もです」それだけしか返せず、次の言葉を探すものの見つからず、私はわずかに唇を噛んだ。「お二人ですか?」気づけばレストランの前まで来ていた。スタッフが穏やか
あの二人と別れ、部屋に戻ってしばらくすると、インターフォンが鳴り、私は思わずびくりと肩を揺らした。まさか――。そう思ったものの、すぐに首を振る。ここはあの家ではない。そんな無遠慮なことが許される場所ではないはずだ。玄関へ向かい、扉越しに声をかける。「……はい?」「お届け物でございます」その一言に、張り詰めていたものがわずかに緩む。扉を開けると、そこにはホテルスタッフだろう女性が立っていた。完璧に整えられた姿勢と所作は、先ほどフロントで見たものと同じで、無駄な動きが一切ない。「こちら、ホテルからのサービスでございます」そう言って差し出されたのは、先ほどのドレスショップの袋だった。一瞬、理解が追いつかない。袋を受け取り、中を覗く。そこに入っていたのは――先ほど、私が手に取ったあのドレスだった。「あの、どうして……」思わず口にしかけて、言葉が途切れる。もしかして、あのあと何かあって、私に回ってきたのだろうか。それとも、宿泊者であることが伝わって、店側からの配慮として――。いくつか理由を考えるが、どれも決定打にはならない。それでも、とりあえず代金を支払うべきだと思い直し、私は顔を上げた。「代金を取ってきますので、少しお待ちいただけますか」そう言って踵を返しかけた、そのときだった。「サービスでございます」柔らかな声が、背中に落ちる。振り返ると、女性は変わらぬ微笑を浮かべていた。だが次の瞬間、袋をこちらの手へと軽く押し戻すようにして、半ば強引に持たせる。「でも……」戸惑いを口にすると、女性はさらに穏やかに微笑む。「それでは、チェックアウトの際にご確認いただけますでしょうか。私どもの役目は、お届けすることですので」その言葉は丁寧だったが、これ以上踏み込ませないという意思もはっきりと感じられた。ここで押し問答を続けても、彼女を困らせるだけだろう。「……わかりました」そう答え、軽く頭を下げる。「ありがとうございます」「あと、こちらも必要でしたら」そう言って差し出された小さなボックスには、メイク用品やアクセサリーが収められていた。最低限のものは持ってきているが、派手なメイクを嫌う恒一さんに合わせていたせいで、手元にある化粧品は驚くほど少ない。これも後で清算すればいい。そう考え、私はそれを受け取った。「最後に、夕食
私はその問いに声を返すことなく、店内へと足を踏み入れた。あえて迷う素振りも見せず、一着のドレスを手に取る。深いネイビーのシルク。落ち着いているのに、光の角度によっては艶やかに表情を変える。初めて入る店だが、どれも目を引くものばかりで、質の良さが一目でわかった。「聞いているのか?! どうして家で掃除をしていない」私の態度に苛立ったような声が背後から落ちる。だが、私は手を止めることなく、そのままドレスを見ていた。「こんなところで、何をしているんだ」これ以上は店にも迷惑だろう。私はハンガーにかかったドレスの裾を軽く整えながら、二人のほうへと向き直る。「服を買いに来ただけよ」それだけを告げて、ようやく視線を上げる。「何か悪い?」恒一さんの眉がわずかに寄る。その反応を見てから、私はもう一着、今度はより華やかなドレスを手に取った。淡い色合いのそれは、この場でも目を引く一着で、普段の自分なら手に取ることすらなかったものだ。「……そんなものを、どこに着ていくつもりだ」呆れと苛立ちが混じった声に、私は軽く肩をすくめる。「別に、あなたに関係ある? 欲しいと思ったから、買うだけよ」「関係あるだろ!」恒一さんがそう言ったあと、美咲がそっと口を開いた。「お姉さま……」遠慮がちな声と、今にも泣きそうな表情に、心の中で私はため息をつく。「こんな高いお洋服……大丈夫なんですか?」心配するような口調だが、言いたいことは分かる。「恒一さんのお金、ですよね……?」小さく言葉を続ける。「私、そういうの……あまりよくないと思ってしまって……ごめんなさい」申し訳なさそうなその言葉に、周囲のスタッフの視線までもが、わずかにこちらへ寄るのを感じた。この人たちはどう思っているのだろう。女が二人に男が一人。寄り添っている男女が、一人の女性に金を使うなと言っている。「お姉さま」と呼んだのだから、二人が姉妹だということは分かるはずだ。ならば、妻は美咲だと判断するだろう。妹の夫の金を使う姉――そんなところか。ため息をつきたいのを抑えながら、私は最初に手に取ったネイビーのドレスを再び持ち上げる。「これを」そうスタッフに声をかけた。「いい加減にしろ!」恒一さんの声が、今度ははっきりと怒りを帯びる。「自分の立場が分かっているのか」その視線は真っ直ぐに私へ向けら
「一週間、でございますか」初めて見せた戸惑いだった。予約なし、身分の提示も曖昧なまま、まとまった日数を求める客など、警戒されて当然だろう。けれど、ここで引くわけにはいかない。クレジットカードは使いたくない。履歴を辿られれば、すぐに足がつく。「必要であれば、先にお支払いします」そう告げると、女性は一瞬だけこちらを見たあと、すぐに穏やかな表情へ戻った。「かしこまりました。お部屋はツインタイプのご案内となりますが、よろしいでしょうか」「構いません」差し出された書類に視線を落とし、ペンを握る。名前を書くその一瞬、ためらいが生まれる。だが、私は祖母の旧姓を書き込んだ。偽りであることは分かっ
あの食事会から一か月近くが経つが、恒一さんとは相変わらずの日々が続いていた。 毎日彼のシャツにアイロンをかけ、食べるかわからない食事を作り、待つ日々。彼は社長として多忙な日々を送っていて、感情をあまり表さない人だと思っていたが、それは違ったのだ。 美咲と話すときの恒一さんは、私の知っている人とは違った。冷たいのは私に対してだけだった。そのことは少しずつ私の中で、このままでいいわけがないという思いに変わっていった。どうにかして離婚を――そう考え始めたとき、ありえない連絡が入った。「美咲を、しばらくお前の家で預かってほしい」父からの電話に、私はさすがに「は?」と声が漏れていた。「な
都内でも名の知れた高級ホテルの最上階。大きなガラス窓の向こうには夜景が広がり、柔らかな照明に照らされた店内は、静かで落ち着いた空気に包まれている。食器が触れ合うかすかな音と、抑えられた会話だけが上品に響いていた。スタッフに名前を告げ、案内されようとした、そのとき――「恒一さん!」弾んだ声が、空気を破った。振り向くと、そこには見覚えのある父、そして継母、義妹の姿があった。義妹の美咲はまっすぐこちらへ駆け寄ってくる。淡い色のワンピースを揺らしながら、迷いなく距離を詰めてくるその姿に、私は思わず目を見開いた。そして彼女は、ためらいもなく恒一さんの腕に触れる。「久しぶりです、会いたか
黒崎家のリビングは、夜半を過ぎるとひどく広く感じられる。天井まで届く大きな窓の向こうには都心の灯が淡く滲み、磨き上げられた大理石の床にはその光が揺れている。けれど、その冷ややかな輝きとは裏腹に、室内には人の気配がほとんど存在しない。私はソファの端に腰掛け、両手を膝の上で重ねたまま、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。 黒崎澪、二十六歳になる。旧姓は榊原だ。 榊原グループの令嬢だった母と、その家に婿入りした父との間に生まれた一人娘である。背中まで届く黒髪はひとつにまとめていて、淡いベージュのワンピースも、誰に見せるわけでもない室内着にすぎない。整った目鼻立ちとどこか儚げな雰囲気